神とは誰かという問いかけはよい質問です。「神は何か?」と問いかけるより良いでしょう。なぜなら、神は存在し、私たちを創造され、私たちを愛され、私たちの存在を気にかけ、私たちの必要を満たそうと願われ、そして私たちを救うために御子(イエス)をこの世に送ってくださったからです。もし「神とは何か?」という問いかけであれば私たちは、神は果てしない存在であり、創造者であり、実在し、などと答えるかもしれません。勿論それらは正しい答えです。しかし始めの質問の方が、聖書によって啓示されているような神、つまり人格を持たれ、私たちに対する愛を持たれた神とは本当は誰であるかということをより具体的に問いかけることになります。
聖書は私たちに、全て存在するものの中で、また永遠の過去から未来に至るまで、ただお一人の神しかおられないと教えています。神は決して誰かによって創造されたお方ではありません。神は完全の愛で満ちておられ、完全な義を持たれ、完全に聖であられ、また完全に情け深いお方です。そして神は私たちの最善を望んでおられます。聖書に「あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、」(ハバクク1:13)と書かれているように神は聖なるお方であり、またどのような罪も犯されません。しかしだからといって神は人の悪い行いを見過ごされるという訳ではありません。これは単に、どんなに神が聖なるお方であるかということを描写する為のひとつの表現です。神は罪を犯すことが出来ません。神は完全なるお方です。
キリスト教の神は三位一体です。これは神が3つの人格を持っておられるという意味で、3つの異なった神々という意味ではありません。より専門的には、三位一体の教義とは 唯一の神は、父、子、聖霊の人格、または性質があると言う事が出来ます。それぞれの人格は同じではありませんが、だからと言って3つの異なった神々ということではなく、神は唯一です。例えばこのことは「時間」という本質にも類似した共通概念を見出すことが出来ます。時間は過去であり、現在であり、また未来でもあります。過去は現在と同じではなく、また未来とも異なるものです。しかしだからといって3つの時間があるわけではありません。時間と呼ばれるものはただひとつです。
父、子、聖霊とは体の肉や骨のことではなく、人格のことを表しています。ですから三位それぞれの個性を表すために「人格」という言葉が使われています。言い換えると、それぞれの人格が意思を持っておられ、また人々を愛され、人々のことをよくご存知で、また人々と意思の疎通をされるということです。それぞれに個々の特性があり、私たちは父、子、聖霊の3つの御性質を知ることが出来ます。
三位一体であるがゆえに、神は御子として人の形となり、なおも全世界を支配することが出来るのです。ですから、御子イエスは同じ目線になって私たちと交わることがお出来になるのです。
下記は三位一体についての聖書箇所です。
- マタイ28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
- 第2コリント13:13 主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。
神はただお一人だと聖書は教えています。「わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。」(イザヤ書45:5)しかしそれと同時に聖書は父、子、聖霊は神であると教えています。
下記の図表は三位一体のそれぞれの人格が神として共通の特性を持っていることをとても簡単に示したものです。しかし前に述べたように、父、子、聖霊の各人格が意思や言葉を持っておられます。ですから私たちは、神は三位一体であり3つの人格があると言うわけです。
父 | 子 | 聖霊 | |
神と呼ばれる | ピリピ 1:2 | ヨハネ 1:1,14; | 使徒 5:3-4 |
創造主 | イザヤ 64:8 | ヨハネ 1:3; | ヨブ 33:4, 26:13 |
偏在(神はどこにでもおられるという意) | 第1列王記 8:27 | マタイ 28:20 | 詩篇 139:7-10 |
全知(神は全てをご存知であられるという意) | 第1ヨハネ 3:20 | ヨハネ 16:30; 21:17 | 第1コリント 2:10-11 |
意思 | ルカ 22:42 | ルカ 22:42 | 第1コリント 12:11 |
マタイ 3:17; | ルカ 5:20; 7:48 | 使徒 13:2 |